Tuesday, June 27, 2017

Green Tea Over Rice

The Flavor of Green Tea Over Rice is the title of one film by Ozu Yasujiro, the translation of Ochazuke no Aji. Normally, at meal time, Japanese eat three bowls of rice with okazu, the term inaccurately translated as side dish. Everything other than white rice on the table is okazu, which may be fish or meat (but never both) and vegetables, all seasoned (predominantly with soy sauce). When you have eaten all the okazu and still have some rice left in the third bowl, you pour green tea and maybe have a pickle and finish the rice, slurping it with the rim of the bowl on the lips, though this is considered bad manners. This is ochazuke, literally .  It cleanses the palate as the dessert is designed to do in European dinners.  Sometimes, instead of tea, leftover soup might be poured on the rice. The lower social crust, constrained economically, is not generous with okazu as the upper crust, and this, combined with the slurping, explains the ochazuke as "gauche." Ochazuke is a matter at the familial table; tea is never poured over rice in any formal dinner or at the table with invited guests.  Rice bowl is held in one hand (left) and eaten with chopsticks in the other hand (right); if you are left-handed, you are corrected from the time a child starts using chopsticks.  We learn the word right and left as the chopstick hand and bowl hand.  Noodles are meant to be slurped; it is a fast food of old times, popularized by workers on the run, like firefighters, messengers, construction workers, etc.  So, it is viewed as ridiculous if noodles are not swallowed fast.  Itami Juzo's early film Tanpopo (just before A Taxing Woman has scenes that have to do with the right way of eating noodles.  In a book of essays, he, a gourmet and a great chef himself, talks how Japanese cook spaghetti like udon (far beyond al dente).  I wrote this in response to a friend’s query on the title of the Ozu film. 

06.26.17

Black Ballerina

In my next life I want to be born a black girl with a midnight black skin, smooth and flawless; and I want to be a ballerina, with long legs and feet of strong arch and perfect turnout. I am willing to do all the hard work to be good enough to receive training at the School of American Ballet.  Just an idle thought that flurried into my mind as I watched a young black woman walk near Lincoln Center, very likely an SAB student. 

06.24.17

Sunday, June 25, 2017

人生の苦楽

人生の苦楽とは、人が生活して行くのに好いこともあれば悪いこともあるという事です。好い事ばかりの一生というのはありません。又、悪い事ばかりの一生もありません。そう思う人はいます。それは当人が好み選んで、社会の悪い面ばかり気にして、好い面を見る智慧に欠けているひとで、そういう人は不幸な性格の持ち主で、性格の不幸を、人生の不幸と誤解している人です。人は様々ですから、裕福でも不幸な人もいるし、貧乏でも楽しく生きていく人もいます。苦労に苦痛を重ねて、はたから見て哀れだと思っても、当人は意外に苦にしていないという例も珍しくありません。

人生は、ハイキングみたいとも言えます。ハイキングの好きな人は、大勢人の通った道を歩いても面白いとは思いません。公園を散歩するのと変わりないからでしょう。森の中のあまり人の行かない所のほうが興味深いと思う理由は、ハイキングの魅力が冒険だからです。ですから、森の中とか、山道の方が、ハイキングの甲斐があるという訳です。そういう山道には、危険が伴うのは避けられません。うっかりすると、地面から盛り上がった根っこにつまずいて膝を剥くとか、垂れ下がった木の枝に額をごつんとやられるとか、突然驚いて飛び立った鳥の糞が頰に落ちたとか、虻(あぶ)にさされるし、あるいは蛇も出てくるかも知れません。崖から足を踏み外しそうになって、息が止まりそうになる事もあるかもしれません。こういう危険が恐ろしい人は、うちに引きこもっていてハイキングはしません。ハイキングが大好きな人は、だいたい冒険好きで、そういう人は、森も奥深くとか、山は険しいところとか、もっと極端なハイカーは、無人の砂漠を越すとか、熱帯地のあらゆる毒蛇の住む森林を探るとか、熊や狼の住む山の奥の奥に忍び込むとか、そういう事を選んでするものです。

世の中には、危険を避けて家からあまり遠くに出ない人もいますし、いろいろ冒険的な事を試してみたがる人もいます。ただ、うちに引っ込んでいても、危険はあります。熱いお鍋で手を火傷するとか、階段から滑って怪我をするとか。トンカチで釘を打つ積もりで指を打つとか、じっと座っていても、地震はあるし、雷は鳴るし、火事もオヤジも避けらないものです。つまり、すべて人生には危険がともなうのが運命です。ハイキングに長けた人は、危険をある程度予期していてうまく避ける知識を養っています。いろんな虫や、毒蛇やらに噛まれる事に備えて、薬を蓄えていくとか、熊が飛び出してきたらすぐ地面に横たわって死んだ振りをするとか、空を見て豪雨を予期するとか、巧みにいろいろなことを知っています。予期していない危険もあります、それはその場で、智慧を働かす心の用意をしています。

人生の危険は、避けようとしても避けられない以上、あるものは我慢して堪えるより他はないかも知れませんけど、多くの場合、それぞれその場で智慧を働かす心の用意があれば、忍びられますし、忍びられればそれだけ、人生の苦が耐えられるわけです。では、心の用意とはどういう事でしょう。

日本では、よく「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。「あぁ、暑い暑い」あるいは 「寒い寒い」と文句を言っても、お彼岸になれば季節が変わってずっと楽になるから、それを予想していたら、暑さも寒さもそう苦労にならないという事です。香織おばは、その改作で「暑さ寒さも気持ちの次第」と言います。今日零度で震えていても、二三日前の零下八度の日の事を考えたら、楽なもんですと自分に言い聞かせるとそれほど寒くなくなります。暑さも同じ事、今日は暑いけど、まだまだ先にもっと暑くなる日がある事を予想したら、それほど暑く感じなくなるものです。日ごとの辛い経験も、もっと辛い事を思い出したり想像したら、辛さがある程度減少します。これが我慢という事かも知れません。体を縮めて、肉体的、あるいは感情的に、我慢するのではなくて、理性的にする我慢の事です。

不思議な事実は、人生の「苦」は必ずしも「悪」ではないという事です。人生は、今日あしたの事ではなくて、何十年も続くものです。その間に生活の状態は変わるものです。だんだん良くなるかもしれないし、悪化するかもしれません。一度良くなって、また悪くなって、そのあと良くなるという事もあり、天候のようなものです。今日は嵐でも、明日は晴れ、大雪が続いてもいずれは春になります。こう考えると、過去の苦が常に比較になります。現在の方がいい状態でしたら、以前の苦がそれほどみじめでなくなるし、今悪くても先に良くなる事も考えられます。苦の経験は、先の状態を凌ぎ易くするのです。

戦後の食糧難の生活をした人は、またそういう時代が来ても堪えて行けると言う自信があります。それだけでなく、過去と較べて食べものに不自由のない現在は、毎日贅沢しているという感じで、幸福感を経験します。戦争中の空襲の毎日を経験した人は、現代の社会が乱れたと言っても、何より平和である事が幸福な事だと思うものです。ですから、逆説ですけど、苦労した人は、苦労した事のない人よりも幸福感を余計に味わえるのです。こう極端でなくても、例えば、子供の頃虚弱で、病気ばかりして、あと大人になって健康になると、病気をあまりしないという事だけでも、人以上に幸福感が与えられます。これは香織おばの事です。

言い換えれば。今苦労に苦しんで不幸だと思っていても、十年、二十年先に、意外にそれが原因で幸福感が得らるのです。今日零下十二度で苦しんでも、来週は零度に上がって、「あぁ、楽だ」というわけです。今、身の回りに嫌な事ばかりで、惨めで情けないと思うのは自然の事ですけど、先になってそういう経験が作り上げてくれる心の用意の事を考えたら、幾らか忍びやすくなるのです。これが、あるいは仏教の「悟り」というものかもしれません。悟りは、何年もの様々な経験を積んで得られるもので、若い人には非常に難しい事も、また実際です。でも、悟りという事を考えてみるだけでも、いい事です。

学校というのは、子供の世界ですけど、大人の社会の縮図ようなものです。学校の経験は楽な事ではありません。人生と同じように、いい事もあれば嫌な事もあります。嫌な事ばかりに見えても、必ずいい事もあります。悪い子供もいれば良い子供もいます。乱暴者もいれば、優しい子もいます。いじめられると、いじめっ子ばかり目につきますけど、十人が十人悪意のあるいじめっ子ではありません。先生の中でも優秀な先生もいれば無責任な先生もいます。中には、先生と自称していても、信用できない悪い人間もいます。毎日の学校生活も楽な事ではありませんね。大人の世界に入っても同じですから、そのための心の準備と見てもいいでしょう。でも、子供の年齢では、悟りを開くのは無理な事かもしれません。では、どうしたらいいのでしょう。

また、森の中のハイキングに例えて考えてみましょう。危険があるから、ハイキングはしないという人に例えれば、嫌な事があるから学校はもう行かないという事も考えられますけど、そうしたら人生は恐ろしい事ばかりだからもう生きるのは止めるというのと同じで、これは逃避術で理性的な解決ではありません。森にハイキングに行くかぎり、適当に予備知識、準備、注意、判断力を働かせば、心配する事はないでしょう。先ず、ハイキングに行く場所について知識を得る事、薬、水、食べ物、その他必要なものをちゃんとリックサックに詰める事、歩きながら始終目を光らして周りの様子を観察する事。つまずかないようにするには、足元に注意。虫が飛んできたら、やたら手は振らない事。狼が出てきたら静止して、逃げたり向かったりしない事。予期しない危険には、鋭い判断力を働かせる事。道が分かれていたら、どちらの方が安全だろうかと感を働かせる事。

学校のジャングルも、判断力を働かせるのが先ず第一。いじめっ子は森の狼です。悪辣なのもいますけど、大半は、前に書きましたけどやたらと吠える小犬と同じで、もともと臆病者です。できるだけ避ければ避ける事、でなければ無視するか、ちゃらまかすか、なるべくいい生徒の仲間入りをして乱暴が行き過ぎないように注意する事。反抗しても、泣いても、逃げても、そうすればもっといじめてくるもの。予備知識として大事なのは、いじめっ子の各種を見極める事。悪い子供の中でも、本当にタチの悪い大将格と、真似事をしている子といます。真似事の追従者(へっつらい)は軽くあしらい、大将には特別の注意を払う事。悪口は、どんなに悪い事を言っても、危害はありませんから、馬ならず、猫に念仏で、知らん顔。大将が危害を与えていたら、証拠品、例えば落書きされたカバン、引っ掻かれた腕、これを信用できる先生に見せて訴える事。こういう見分ける判断力を養う事が大事です。人のいない暗い道を避けるのと同じで、一人離れている事は危険。いつも大勢いるところに交わる事。少し大きなかばってくれるような子とお友達になる事。先生も、いい先生と、そうでない先生と区別する判断を養う事。先生に叱られても、理性的に考えて、それが正しい批判でしたら、真剣に受け入れ、そうでなければ無視する事。褒められた場合も同じで、通り一遍のおせいじを言う先生は信用できません。人が何を言っても、自分の理性で判断して正しいと思った事には、自信を持つ事。まあ、いろいろありますけど、全てもちろん「言うは易し」ですね。でも、判断力を働かしているうちに、少しづつ心の用意というものが養われてくるのです。


小学校を卒業して、その先、ますます毎日の世界が複雑になり、苦しい事も悲しい事も、増えるばかりで減少する見込みはありません。その反面、楽しい事も深みを増して、大人になる希望もでてきます。それだけに、人生の苦楽を、よく理解する必要がありますね。でも、ルチアには優れた知能が備わっていますから、勇ましく対抗していけます。ルチア、しっかり。香織おば、応援しています。    

ルチアに  香織おば  01.24.16
                                                                                          

My Pet Animals  - 好きな動物

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My favorite pet animals, aside from the cat, are the giraffe, the owl, and the turtle. Having written this, I suddenly realized that I have always been interested in stretching my neck to broaden my field of vision, that I developed a habit of staying up late with my eyes wide open after dark, and, I plod to learn and, protective of my own well-being, aspire to live a long life. So, clearly, none of this is accidental.

猫の他に、あたしの一番好きな動物は、麒麟とふくろうと亀。こう書いて気がついたのは、首を伸ばして視野を広げるのが常に好きで、暗くなると目がぱっちりで夜更かしが癖になり、そして勉強はこつこつとやるタイプで、又、自分の健康と安全を守り、長生きがしたいという欲望と、すべて偶然ではないですね。

06.23.17

Slant Slide Skew

There are sidewalks in New York City that slant toward the curb, no doubt for better drainage, because of which we pedestrians, in order to avoid sliding, are forced to walk skewed.  I detest them and if I know the street I avoid it.  

06.22.17